現代美術パドル

現代美術パドル
Contemporary Art
私たちはContemporary Artの集団である。
Contemporary Artとはデジャヴじゃない作品を指す。
デジャヴとは、どこかで見たことがあるような、何かそんな気がするということ。
この場合、だれかの考え方を模倣している。
ヨーロッパのレベルの高い批評家はデジャヴという言葉をよく使う。
私たちは表層だけをみない、深部をみる。

怒りや悲しみ、そういう状態の中でも制作をすると、喜びに満ちた感覚になる。おおきな境涯につつまれて、心地よい脱力感の中で、、、、、、そして、いつの間にか怒りの原因、悲しみの原因が解消してしまう。
そのように生まれたArtがわたしたちのArt workである。
怒りや悲しみも前向きなエネルギーに変える、それが私たちのArt workである。

イメージを持ってことに挑み、状況に応じ臨機応変に、インスピレーションをもって対応し、人類の進化のサバイバルの中で、このエッセンスを取り込み私たちは美へと向かう。

面倒だと感じる手続きをそぎ落とし、楽しみな手続きを増やしていく、そのバランスの中で美が生まれる。それは生きることと一緒で、それは自らのアイデンティティの中で美しい公式を見出すこと。インスピレーションのクオリティを磨きながら、
美しい生は美しい手続きの中から生まれる。
本当のミニマリズムは中庸なものである。
アートは日常と共にある。生きていくことと共にある。全体として存在する。

絵は絵である前に物質である。絵か物質かギリギリのところで絵画であり続ける。その地点がもっとも美しい。
絵の主要な本質は平面であること。キャンパスも本来立方体。絵を認識するとは平面を認識することでもある。
美を認識する時は同時に醜も認識している。
モチーフの問題は、知覚の本質を認識すれば自然に解消される。
デュシャンは知覚の本質を認識していた。

イチローのヒットには、その中にあらゆる手続き、努力、経験、、、。だからイチローのヒットはポテンヒットでも美しい。アーティストも同じように、作品の中に、努力、経験、手続き、思考、、、、、、。

同時代は主体性の時代であることを、私たちは認識する。
主体という概念はおそらく、明治以降、subjectが翻訳されたものであろう。西洋の概念である。西洋で絶対的真理(神、ユークリッド幾何、、)が崩壊した時、レヴィストロースは神話を分解し、ピカソは絵を分解した。それとともに遠近法(主体)は解体した。
Subjectという概念は本来、神の元にという概念であったが、ルネサンス(遠近法が生まれた時代)に主体という概念に変わった。人間が強くなった。

日本では鎌倉時代、いやそれ以前、ある仏教の伝来とともに、そのような思想があった。とてもたくましいものであった。依正不二という思想である。それは、環境(今の状況)は主体が切り開く、そして、環境は主体と共にある。
西洋の主体は自然を征服しようとした。日本のそれは自然と共にある。
平和、幸せは与えられるものではなく自ら切り開くものだ。
我々パドルは使命感を持って、同時代を生き抜く覚悟でいる。
Contempoirary Artは西洋で生まれたものである。そして私たちは、日本特有の主体のあり方を携え、再び西洋(主体不在の)へ向かう。

精神の∞地点
生命の方向性がなければ知覚は生まれない。
知覚される対象(インスピレーションを含む)には、過去からの経験(自身、人類、生命)、未来への志向(自身、人類、生命)を含む。
その情報は永遠である。
デュシャンの知覚は精神の0地点であった。
我々は生命の方向性という主体性のパドル(一つの焦点)で同時代を生きる。           今井英人